誠之堂・清風亭概要
「誠之堂」と「清風亭」の2つの建物は、深谷市で生まれた渋沢栄一にゆかりの建物で、平成11年に東京世田谷区から深谷市に移築されました。
ともに建築史上、重要な建物で、「誠之堂」は平成15年、国の重要文化財に、「清風亭」は平成16年、埼玉県指定有形文化財に指定されました。
深谷市では、この建物の魅力をより理解していただくため、常時公開しています。
観覧の申出
少人数で観覧する場合は、現地の受付にお声がけください。
受付時に見学者受付簿へご記入いただきます。
10名以上での観覧申込みは、次の「団体見学について」から、ご確認と事前予約をお願いします。
団体見学について(誠之堂・清風亭)
場所
埼玉県深谷市起会110番地1(大寄公民館敷地内)
カーナビ等で検索する場合は、深谷市起会84-1(大寄公民館の住所)
開館時間
午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分までにお願いします)
休館日
年末年始(12月29日から翌年1月3日)
料金
見学は無料です。
撮影、見学等について
誠之堂・清風亭での撮影等について (PDFファイル: 174.5KB)
誠之堂・清風亭での撮影を希望する方は、「誠之堂・清風亭での撮影等について」をご確認ください。また、見学にあたっては、文化財の保存にご配慮ください。
施設紹介パンフレット
誠之堂・清風亭パンフレット (PDFファイル: 2.0MB)
散策ガイドについて
見学の際は、次の「散策ガイド(見どころパンフレット)」をご覧いただくと、見どころを確認いただきながら見学ができます。
散策ガイドは、現地でも配布しています。また、係員によるガイドを希望することもできます。
誠之堂散策ガイド(PDF:12.4MB) (PDFファイル: 12.5MB)
清風亭散策ガイド(PDF:7.1MB) (PDFファイル: 7.2MB)
誠之堂・清風亭へのアクセス
誠之堂・清風亭は、JR高崎線深谷駅北口から北に約4キロメートル。自動車で10分、徒歩で1時間ほどの距離にあります。
レンタサイクル、タクシー、コミュニティバスなどがご利用できます。
レンタサイクル
レンタサイクル「フカペダル」がご利用いただけます。
詳しくは、次のホームページをご参照ください。(お問い合わせ先は、レンタサイクル事業運営主体である深谷商工会議所になります。)
市内のタクシー・バスツアー
深谷市内のタクシー会社が、誠之堂・清風亭や田島弥平旧宅(伊勢崎市)など渋沢栄一ゆかりの史跡を約3時間でめぐる「史跡めぐりタクシー」を提供しています。
また、団体での見学については、市内のバス会社が、市内外の文化財施設、史跡などをめぐる旅行企画の相談を受けています。
詳細については、市内の各タクシー会社、バス会社へお問い合わせください。
渋沢栄一ゆかりの史跡めぐりタクシー (PDFファイル: 738.1KB)
深谷市コミュニティバス「くるリン」
| 深谷駅北口 | 8:35 | 9:35 | 11:50 | 15:05 | ||||
| ↓ | ↓ | ↓ | ↓ | |||||
| 大寄公民館 誠之堂・清風亭 | 8:49 | 9:12 | 9:49 | 10:30 | 12:04 | 12:50 | 15:19 | 15:42 |
| ↓ | ↓ | ↓ | ↓ | |||||
| 深谷駅北口 | 9:26 | 11:11 | 13:31 | 15:56 |
※深谷駅(JR高崎線)と大寄公民館(誠之堂・清風亭)との往復部分を抜き出したものです。詳細な時刻表は、次のリンクから確認ください。
北部シャトル便+周遊便 (PDFファイル: 1.1MB)
コミュニティバス「くるリン」定時定路線(外部リンク)
アクセスマップ

地図情報
お問い合わせ先
大寄生涯学習センター・大寄公民館
〒366-0837
埼玉県深谷市起会84-1
電話:048-571-0341
ファクス:048-574-5865
メール:oh-ko@city-fukayakousha.com
【重要】
問い合わせ時には、メール本文冒頭に、ご住所、お名前(漢字及びふりがな)、電話番号、お問い合わせ内容の入力をお願いします。
(注1)メールでの問い合わせでは、特定の個人や団体を誹謗・中傷するもの、企業などの営業活動、政治・宗教等に関するもの等はご遠慮ください。
(注2)匿名もしくはハンドルネームなどを使用されている場合や、住所が正確に(地番などまで)記入されていない場合は、回答することができない場合もありますのでご了承ください。
(注3)迷惑メール防止機能や受信制限の設定を行っている場合は、ドメイン「city-fukayakousha.com」が受信できるように設定してください。
(注4)緊急性を要するお問い合わせにつきましては、直接お電話をお願いいたします。
団体見学について
事前予約のお願い
10名以上の団体で見学を希望される場合は、下記予約システムより事前にご予約をお願いします。
1団体あたりの人数:40名まで
(注)各施設の定数は20名までです。
(注)40名を超える場合は、個別にお問い合わせください。
予約は、観覧日の1週間前までにお申し込みください。
2026年4月以降の団体見学は、下記の「深谷市公共施設予約システム」から予約してください。初回に、利用者登録が必要になります。
下記リンクから予約ができない方は、大寄公民館へお問い合わせください。
公共施設予約システム(入口)令和8年4月1日以降(注)外部リンク
誠之堂・清風亭の空き状況確認(外部リンク)
・公共施設予約システム(令和8年4月1日以降)は上記のリンクからお入りください。
・予約等に関する詳しい方法や予約システムに関する問い合わせについては、深谷市公共施設予約システムのページ(外部リンク)をご確認ください。
当日の予約変更・キャンセルについて
下記まで、必ずご連絡をお願いいたします。
平日:文化振興課(048-577-4501) 午前8時30分から午後5時15分まで
土・日・祝日:大寄公民館(048-571-0341) 午前9時から午後4時30分まで
バスの駐車場について
バスでお越しの場合、北部運動公園の駐車場にお停めください。
また、駐車する際は舗装されている場所にお願いいたします。
(注)バス駐車場案内図は、事前に必ずご確認ください。
バス駐車場案内図

誠之堂について
誠之堂の歴史

誠之堂は、大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って第一銀行の行員たちの出資により建築されました。
渋沢栄一は、深谷市に生まれ、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、日本の近代経済社会の基礎を築きました。その拠点としたのが第一国立銀行でしたが、明治29年、同行は第一銀行となり、栄一は、その初代頭取を務めました。
栄一は、喜寿を迎えるのを機に、第一銀行頭取を辞任しましたが、同行の行員たちが出資を募って誠之堂を建築したことには、栄一が行員たちから深く敬愛されていたことが伺われます。
平成15年5月30日、国の重要文化財に指定されました。
「誠之堂」の名前の由来
「誠之堂」の名は、渋沢栄一自身により命名されました。
儒教の代表的な経典のひとつ「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」にちなんだものです。
建物の概要
煉瓦造平屋建、建築面積112平方メートル。外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を取り入れるなど、様々な要素が盛り込まれ、それらがバランスよくまとめられています。
設計者は、当時の建築界の第一人者であった田辺淳吉です。
誠之堂の設計発注に当たって、次の条件が出されました。
1.西洋風の田舎屋
2.田舎の家らしく
3.建坪は、30坪前後
4.小集会に適する程度の設備
田辺は、この条件を守りつつ、独自の発想を凝縮してこの建物を造り上げました。
誠之堂の装飾
誠之堂は、小建築ながら、多彩な煉瓦積技法と自由な意匠によって端正かつ雅趣ある建築作品に仕上げられ、大正建築の特質の一面である美術工芸的傾向を代表する作品として、高く評価されています。
吟味された素材ときめ細かいデザインにより、密度の濃い空間が作り上げられています。
外観

小屋根
屋根は、天然スレート瓦で葺かれています。
正面の屋根の中央には、小屋根が付けられています。これは、室内からは見えず、明かり採りの機能はありません。
田辺は、栄一にふさわしい威厳を持たせるため、シンメトリー(左右対称性)を強調する目的で作ったと記しています。

風見鶏
誠之堂の外観で、まず目に付くのが、この風見鶏ではないでしょうか。
鶏は、復元されたものですが、方位板は当初からのものです。文字が、てん書風にデザインされた漢字で示されたユニークなもので、中国風を感じさせます。

ベランダ
正面のベランダには、左右にかぎ型のベンチが設けられています。ベンチの背もたれには、東洋趣味風の手摺子が木組みで装飾されています。
このベンチも左右対称で、小屋根とともに、正面のシンメトリーを強調する効果があります。

煉瓦壁
外壁には濃淡のある煉瓦を用い、リズミカルに配置することで、装飾性と変化を与えています。また、小口面を1センチほど突き出して積むなど、立体的にも工夫された、多彩な煉瓦積技法が見られます。
当時、煉瓦タイルによる均質な外壁とすることが通例でしたが、それを田辺は、「いわゆる上等仕事」と呼び、あえて異なった工法を採用しています。
なお、解体の際に外壁、基礎の各所から「上敷免製」の刻印のある煉瓦が発見されました。これらの煉瓦は、深谷市内に所在する日本煉瓦製造株式会社で焼かれたものであることが確認されました。

装飾積み
暖炉の背後の北側煉瓦煙突部には、赤、黄、黒の3種類の煉瓦を用いた装飾積みで「喜壽(きじゅ)」の文字を表しています。
内観

玄関
玄関は、白い天井に、柱、梁が外部に表れ、天井周りを飾って、独特の空間を作っています。これは、ハーフティンバーと呼ばれる意匠に似たものです。ハーフティンバーは、昭和初期になってたいへん流行したそうです。
同じ田辺の設計により、翌年建てられた飛鳥山にある「晩香廬」にも共通して見られます。

ヴォールト天井とレリーフ
誠之堂の中心の大広間は、まず、円筒型の漆喰天井(ヴォールト天井)が特徴的です。
天井には、朝鮮風の雲・鶴の模様の石膏レリーフが配され、それらが「松葉」で縁どられています。また、デザイン化された「寿」の文字も配されています。
いずれもめでたい意匠で、ここでも栄一の喜寿を祝っています。
田辺は、雲と鶴は、朝鮮の「雲鶴青磁」の意匠からとったことを記しています。

石膏レリーフ
上から
雲
鶴
寿

次の間
網代天井(あじろてんじょう)
次の間の天井は、大広間とは対称的に網代天井で、日本的な数寄屋造りの様式を採り入れています。

次の間の出窓からも、明るい日差しが差し込みます。

特注金具
カーテン周りのレールや窓や戸の金具などは、特注で作られ、当時のものが多く残されています。
戸のハンドルや錠前は、アメリカの「YALE社」により製造されたものです。よく見ると、製造者「YALE」と発注者の清水組「SCHIMIDZU」が刻印され、特注品であることがわかります。
ある程度まとまった数を特注していたことも推測されますが、製造者と発注者の両方の刻印のある金物は、現在のところ、この事例のみだそうです。
小さいながら隠れた見どころ、と言えるでしょう。

化粧の間や大広間の窓のステンドグラスは目を引きます。
清風亭について
清風亭の歴史

清風亭は、大正15年(1926)に、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられました。
建築資金は、誠之堂と同じくすべて第一銀行行員たちの出資によるものでした。
栄一が「謙徳に富んだかた」と評した佐々木は、当初、自身の古希を記念する建物の建設を辞退しようとしたそうです。目立つことを好まない質実な性格をしのばせる逸話ですが、そうした佐々木も栄一と同じく行員たちから強く慕われていたことが伺われます。
平成16年3月23日、埼玉県指定有形文化財に指定されました。
「清風亭」の名前
清風亭は、当初、佐々木の雅号をとって「茗香記念館」等と呼ばれていましたが、後に「清風亭」と呼ばれるようになりました。
設計時点の資料が残されていますが、これには「清和園記念館」のほか「清風亭」という名称がすでに見られることから、この名称は、設計当初において考えられていたものと考えられます。
建物の概要
建築面積168平方メートルで、鉄筋コンクリート造平屋建。
外壁は、人造石掻落し仕上げの白壁で、対称的に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦がアクセントをつけています。
設計者は、銀行建築の第一人者の西村好時です。
屋根のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、西村自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られています。
大正12年の関東大震災を契機に、日本の洋建築の構造は、煉瓦造から鉄筋コンクリート造へと主流が代わりましたが、清風亭は鉄筋コンクリート造の初期の建築物としても建築史上貴重なものといえます。
佐々木勇之助について
佐々木勇之助(1854-1937)は、若干28歳での第一国立銀行本店支配人就任をはじめとして、同行の数々の役員を歴任し、大正5年、栄一を継いで第一銀行第2代頭取に就任しました。
勤勉精励、謹厳方正な性格で知られ、栄一も深く信頼していました。明治39年に、「取締役総支配人」に就任しますが、これは、栄一が佐々木に第一銀行の業務を一任するために特別に設けた役職であり、二人の絆の強さが伺われます。
佐々木自身も財界の重鎮として活躍しましたが、終始、渋沢栄一を補佐しました。渋沢栄一の多方面にわたる精力的な活躍も、佐々木の手腕と人格によるところが大きかったと考えられています。

出典:「第一銀行史、上巻」第一銀行八十年史編纂室編、第一銀行(1957.12)
清風亭の装飾
清風亭の外観は、当時流行していたスペイン風の様式が採られています。
西村自身は「南欧田園趣味を採用し、これを近代的な手法で建て、清楚な気分を表現することに努力した」という旨を記しています。
左右対称性を基本に、直線的なラインの中にアーチなどの曲線が配される幾何学的なデザインと明るい白壁などからは、「清楚な気分」が強く伝わってきます。
外観

スパニッシュ瓦
屋根は、南欧風を印象づけるスパニッシュ瓦で葺かれています。やや離れた場所からでないとよく見えません。
現在よく見られるスパニッシュ瓦(スペイン風瓦)は、オレンジ色のものが多いですが、清風亭では、青釉や緑釉のものが使われています。

煙突の装飾積み
煙突にも、さりげなく装飾積みがあります。目路によりひし形の模様が作られています。

棟の装飾瓦
棟先は、少し他とは違った瓦を用い飾られています。
当時の設計資料には、この部分の飾りにブドウの房とリスの像が乗るものなども考えられていたことがわかりますが、最終的に、小さな渦巻きがあるだけの簡素なデザインが採用されました。

スクラッチタイル
建物の角やアーチの縁を装飾しているのは、煉瓦ではなく「スクラッチタイル」です。
昭和当初にはよく使われるようになった建材です

鼻黒煉瓦
ベランダや柱の足回りなどには、煉瓦でも特に色の黒い「鼻黒煉瓦」と呼ばれる煉瓦を用いて飾られています。
スクラッチタイルとともに、白い壁にアクセントをつけています。

ベランダアーチ
正面のベランダと、5連のアーチは、印象的な部分です。
スクラッチタイルによる縁どりで凹凸がつくられていますが、どれも同じ並びはなく、あえて左右対称を崩した部分をつくっています。

樋の枡のセミ
縦樋の飾枡には、銅板の打ち出しにより、セミの浮き彫が施されています。これもさりげない小さな装飾です。
ちなみに軒先の樋は、軒の内側に溝が作られ、外から見えないよう工夫がされています。

出窓
平面的な壁に、ゆるやかな曲面の出窓がせり出し、アクセントをつけています。窓は、ベランダのアーチと連関するようにアーチ型の意匠が採られ、窓枠は円柱を模しているなど、興味深いデザインです。
また、窓の周りは、幾何学的なステンドグラスで飾られています。

柱頭の装飾
柱頭の装飾は、ブドウの葉と実の彫刻です。
円柱といえばギリシアの神殿を想像させますが、そのコピーではなく、独自のデザインによる装飾を用いています。
内観

暖炉
室内で、中心にあって目立つのは暖炉です。当初からの火除け板も残されています。
創建当時には、暖炉上の壁に佐々木勇之助の肖像画がかけられていたことが、当時の写真からわかります。

天井仕切の石膏彫刻
トイレには、当初からのブースなどが残されています。
ブースの扉にはめられたガラスはモロッコガラスという表面をぎざぎざにしたものです。
また、男子用トイレの仕切りは、天然スレート(玄昌石)の一枚板で作られています。

出窓腰掛け
出窓の腰掛けも、木製彫刻で装飾されています。
誠之堂のステンドグラス
大広間
6面のステンドグラス






誠之堂大広間の暖炉脇の窓には、6面のステンドグラスが配され、大きな見所となっています。
中国風の珍しい題材ですが、これは設計者の田辺によれば、中国漢代の「画像石」の図柄を模したものです。庶民貴人と侍者、それを饗応する歌舞奏者や厨房の人物たちの像は、栄一を貴人に見立て喜寿を祝う情景と考えられています。
図案は、田辺の部下であった森谷延雄(明治26年-昭和2年、1893-1927)によることがわかっています。また、記録はありませんが、点付けハンダの技法等から、製作は、宇野澤組ステンドグラス製作所によると推定されています。
場面は、右から順に取り上げています。

第1面
第1面と第2面は、貴人とその臣下たちを描いた場面です。
第1面では、中央に貴人が台に座り、両側に侍者を従えています。この台は、「榻(しじ)」と呼ばれるもので、この上に座れるのは、帝や貴人だけです。
人物の衣装は、「袍衣(ほうい)」と呼ばれる広袖の服で、漢時代から始まった衣服形態です。
貴人は、片手を挙げ、何か指示をしているのか、左の侍者と会話をしているようです。

第2面
貴人の左には、3人の臣下が列席しています。
みな左手の第3面で行われてる舞楽を見物しているのでしょう。
右にあるのは、瓶や食器で宴会に使われるものでしょうか。左には果実のなった木も生けられています。
上に飛んでいるのは、ツバメのようで、この饗宴は、屋外で行われているのかもしれません。

第3面
第3面と第4面は、貴人を饗するための楽器演奏と雑技を行っている場面です。
見える楽器は、右は笙、左は簫の一種でしょうか。小鼓の仲間かもしれません。
中央の人物は、倒立技を演じています。雑技の倒立技は、漢の時代に著しい発展をしたそうです。

第4面
第3面に続き、楽器演奏と雑技を行っている場面です。
右では、筒太鼓を叩いているようです。
中央では、「弄丸鈴」という、複数の玉を投げる手技の雑技を行っています。
左で踊る女性は、大きく反って、腕は極端に長く引き伸ばされた姿で描かれています。流れるような動きが強調された興味深いデザインです。

第5面
第5面と第6面は、「庖厨図」と呼ばれる図案で、宴会のための料理の風景を表わしています。
右では、魚をさばいています。また、左では、かまどに火を起こして、大鍋で何かを煮炊きしています。
魚の模様や顔の目など、細かい部分は、薄く切った鉛をガラスの表面に貼る「帯貼り技法」と呼ばれる方法で描かれています。

第6面
左の人物は、何かだんごのようなものを丸めています。
右の2人の足元にある黄色いものが、だんごになるのでしょうか。
当時の主食は、黍(きび)だったそうです。この黄色い穀物も黍で、2人は、これを蒸したり、ひいて粉にしているところかもしれません。
化粧の間
鳳凰と龍のステンドグラス


化粧の間の扉にも、鳳凰と龍のステンドグラスが取り付けられています。玄関から入るとすぐに目を引きます。
ひし形の格子に中央上部にシンボルとして図柄や家紋などを配する手法は、ヨーロッパの伝統的なステンドグラスに散見されます。
デザインは誰によるものかは不明ですが、製作は、大広間のものと同じく宇野澤組ステンドグラス製作所によると推定されています。

鳳凰
鳳凰も龍も、ともに中国風の意匠ですが、中国では、龍は「男子(皇帝)」鳳凰は「女子(皇后)」のシンボルだそうです。ともにめでたい意匠として採用されたことは、間違いないところでしょう。
この鳳凰は、渋沢栄一の当時夫人だった、兼子夫人を表わしているのかもしれません。
輪郭のハンダは盛り上げて付けられ、立体感を与える技法が用いられています。

龍
龍は「男子(皇帝)」のシンボルです。それに倣えば栄一を指したものと考えられます。
また、栄一と龍といえば、渋沢邸の書生たちが結成した「竜門社」が連想されます。「竜門社」が栄一の80歳を祝して贈った「青淵文庫」の閲覧室の欄間のステンドグラスにも、名前に因んだ龍のステンドグラスが見られます。
参考文献
清水建設株式会社著「誠之堂ステンドグラス調査報告書」(平成13年、深谷市発行)
設計者について
誠之堂~田辺淳吉(たなべじゅんきち)~(1879-1926)
田辺淳吉は、明治36年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、「清水組(現清水建設株式会社)」に入り、当時、技師長として数多くの建築家を育てる一方、晩香廬(1917)、青淵文庫(ともに東京北区、渋沢史料館)など、多くの栄一に関わる建物の設計に携わりました。
明治42、43年に欧米を視察し、当時の新しい建築界の潮流、特にウィーン・ゼツェッションに強い影響を受けました。
芸術的志向が強く、繊細な端正な設計を得意とし、大正建築の名手ともゼツェッションの旗手ともいわれました。特に誠之堂などの小規模な作品に本領が見られます。
田辺自身は、誠之堂の設計にあたって「取りたてていえば、凝らない工夫をした・・・いわゆる上等仕事として歓迎されている技巧のすべてを除いた」という旨を述べています。
しかし、その言葉とは反対に、誠之堂の各所には細部にまでこだわった「凝った仕事」を見ることができるでしょう。

大正5年頃 (資料提供:博物館明治村)
清風亭~西村好時(にしむらよしとき)~(1886-1961)
西村好時は、明治45年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、田辺淳吉の推挙で清水組に入り、田辺の片腕となって活躍した後、第一銀行に移り建築課長に就任しました。
銀行建築の第一人者として東京丸の内の第一銀行新本店を始め一連の第一銀行の建物、支店長社宅、証券会社建築等の銀行関係施設を手がけました。
また、東京三田にあった渋沢栄一の孫・敬三らの邸宅の洋館部分も西村の設計によります。
西村自身は、清風亭の設計にあたって「南欧田園趣味を採用し、これを近代的な手法で建て、清楚な気分を表現することに努力した」という旨を述べています。
これは、いわゆるスペイン風の様式により、鉄筋コンクリート造の工法で建築した、ということでしょう。

(資料提供:清水建設株式会社)
深谷市への移築
誠之堂と清風亭は、ともに東京都世田谷区瀬田にあった、第一銀行(第一勧業銀行を経て、現在はみずほ銀行)の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に建てられていたものを現在地に移築復元したものです。
清和園当時
清和園当時は、あまり公開されることのなかった建築物でしたが、建築史研究者や建築関係者の間では、いずれも日本近代建築史上、大正時代を代表する建築物として高い評価を受けていました。
当初は銀行関係者のための集会施設として長い期間利用されていたと考えられています。
そして、昭和46年、清和園の敷地の過半は、聖マリア学園(セント・メリーズ・インターナショナル・スクール)に売却され、昭和50年代には、誠之堂は外国人教師の校宅、清風亭は集会所として借し出されていました。

昭和29年の清和園40周年記念碑
深谷市への移築に至る経緯
深谷市に誠之堂と清風亭に関する突然の連絡があったのは、平成9年9月30日でした。両建物の保存運動を進めていた建築の研究者から、電話による悲鳴とも思えるような打診が、市教育委員会に寄せられたのです。その内容は、渋沢栄一翁の喜寿を記念して建てられた、世田谷区にある誠之堂という貴重な建物が、隣接する清風亭とともに今にも壊されようとしているが、渋沢翁生誕地の深谷市で緊急に引き取ることはできないか、というものでした。
誠之堂と清風亭は、一般には公開されていなかったため、関係者以外にはあまり知られていませんでした。そこで市教育委員会は、大至急両建物に関するデータを集め、この2棟の建物が、近代日本を代表する建物として、高く評価されていることを確認しました。
市教育委員会は翌10月1日早々に市長に報告、市長は誠之堂が渋沢翁に直接関わる数少ない建物であることを重視し、その日のうちに世田谷区に急行して現地の状況を視察しました。
2棟の建物は、たいへん保存状態も良く、風格あるすばらしい姿をしていましたが、既に解体工事用のネットに覆われ、5日後には取り壊しを開始するという、まさに切羽詰まった事態となっていることが明らかになりました。
渋沢栄一翁の顕彰を推進している深谷市としては、現在まで残されている渋沢翁ゆかりの数少ない建物、誠之堂と清風亭が取り壊されてしまうのを、このまま見過ごすことはできませんでした。そこで、保存のための最後の手段として、深谷市への移築が大至急検討されることになりました。
この情報に接した市議会議員や教育委員などの深谷市の有識者の皆さんにも、両建物の移築はたいへん重要な課題であると受け止められました。こうした渋沢翁を誇りとする市民の心を背景として、深谷市は建物を所有していた第一勧業銀行に両建物の移築を強く要望し、解体工事は着手寸前に延期されました。この後、市議会の承認や第一勧業銀行の同意を得て、誠之堂と清風亭は正式に深谷市へ移築されることになりました。
移築場所の候補地は何か所かありましたが、建築の専門家や市議会議員代表で組織した調査委員会の検討に基づき、両建物は、北部運動公園内に新しい大寄公民館と併設されることが決定されました。
なお、誠之堂と清風亭の保存問題は、貴重な建物であるだけに、建築学界からも注目を集めていました。このため、深谷市への移築保存が決定してからは、日本建築家協会から深谷市への激励書が寄せられたり、雑誌などに研究者の賞賛の声が掲載されたりしました。
また、誠之堂のような、文化財的価値の高いレンガ建造物を移築するのは、世界的にもまれなことであり、この点からも建築や文化財の専門家の関心を集めました。
移築復元工事の概要
誠之堂・清風亭のような文化財的価値の高い建築物、特に誠之堂のような煉瓦構造物の移築は、日本でも初めての試みでした。深谷市では移築保存調査委員会を、移築を請け負った清水建設では移築保存検討委員会を設置し、移築方法などの検討を重ねました。
その結果、2棟の移築場所は大寄公民館敷地内とし、「大ばらし」を応用した日本初の工法により実施することに決定しました。これは、煉瓦壁をなるべく大きく切断して搬送し、移築先で組み直す工法です。大ばらしの部材は、解体工事と並行して、順次深谷市へ移送され、解体部材は移築予定地から300mの地点に所在する旧深谷農協本店敷地内に仮置きされました。
そして、平成10年2月から2年間の解体・復元工事を経て、平成11年8月に移築復元が完成しました。
移築復元の方針として、現状維持を基本とし、後世の改変部分はできる限り創建時の姿に復旧しました。
また、清和園当時から、2つの異なる様式の建物が並び建っていることが一層それぞれの存在価値を引き立てていると評価されていましたが、清和園での位置関係をほぼ同様に移築復元できました。
こうして、2棟の記念碑的な建物は、渋沢栄一生誕の地である深谷市で、地域の中に生きる文化財として、新たな歴史を歩み始めることになりました。
誠之堂

切断された誠之堂の煉瓦壁等

基礎に備え付けられた暖炉部

ほぼ組み立てが終わった煉瓦壁

積み上げた煉瓦を固定するために、コンクリートのがりょうを巡らせました。がりょう上部から煉瓦壁を通じ基礎までPC鋼棒を貫通させ、ボルトで締め付け、煉瓦壁体を固定しました。

据え付けられた漆喰天井

天井彫刻の修復
清風亭

切断され運ばれたベランダアーチ

据え付けられたベランダアーチ

鉄筋コンクリートの駆体の屋根裏部

移設された天井レリーフ

一枚ずつ葺かれるスペイン瓦












